密教においては、他の仏教とは違い、欲望も含め、
我々人間の全存在を真正面から肯定します。
そして、
「仏様だけが尊いのではない。すべての人も同様に尊いのである」
「自分の中にこそ仏がいると知るべきである」
「本当の自分を知るということは、仏の心を知ることである」
「自分の中に宝を持っていながら、自分の宝を知らない」
と説きます。
ところが、一般の仏教では、
「人間は皆、抜け出し難い業を背負っている」
ととらえ、その業=罪を生み出す元とは、次の三つ=三業であると説きます。
①人間が身体で行った罪(行為の罪)
②人間が口で喋った罪(言語の罪)
③人間が心で思った罪(意識の罪)
これに対し、真言密教では、この身・口・意の三業を「業」とはとらえず、
「三密」と呼び、この身・口・意を使ってこそ、仏になれると説きます。
密教という名称は、この三密に由来しています。
つまり、仏様だけが仏なのではなく、我々も同様に仏であり、
本来仏たる資質を備えている。
そして、たとえスケールは違っていても、
我々も他の人に代わってもらうことのできない独自な仏としての役回りを持っている。
だから、
「仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為の形態が、
不思議な働きによって感応しあう時、
速やかに悟りの世界が現れてくる。(三密加持)」と説きます。
★三密加持とは、
以我功徳力=我々の功徳の力
如来加持力=仏の救済の力
及以法界力=両者の出会いの場としての全宇宙のあらゆる力
この三つが融合しあうことをいいます。
★加持とは、
「加」とは、仏のお力(ご加護)が修行する我々の心に映ることであり、
「持」とは、修行者の心が仏のお力(ご加護)をよく感じること」です。
転載
http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm